渋沢栄一プロジェクト

渋沢栄一翁と北区のあゆみ

実業家として日本の近代経済社会の基礎を築いた渋沢栄一。その生涯の拠点となったのが、東京都北区でした。王子に製紙工場を興し、飛鳥山に本邸を構え、多くの賓客を迎えながら、地域の発展にも力を注ぎました。ここでは、渋沢栄一と北区とのゆかりをご紹介します。

渋沢栄一とは

渋沢栄一 肖像
写真提供:渋沢史料館

渋沢栄一は1840(天保11)年、現在の埼玉県深谷市の農家に生まれました。家業を手伝うかたわら、幼少期から「論語」などを学び、後年「道徳経済合一説」を説くこととなる素地を培いました。27歳の時にはパリ万国博覧会を視察し、欧州諸国の社会の実情にも触れています。明治維新後は明治政府に出仕し、退官後は一民間経済人として第一国立銀行を拠点に株式会社組織による企業の創設・育成に尽力しました。生涯に関わった企業は約500社、支援した教育機関・社会公共事業は約600にのぼるといわれています。1931(昭和6)年、91歳でその生涯を閉じました。

渋沢栄一と北区のあゆみ

西暦和暦年齢主な出来事
1840年天保11年0歳2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島に生まれる
1864年元治元年24歳一橋慶喜に仕える
1867年慶応3年27歳徳川昭武に従いフランスへ出立(パリ万博使節団)
1868年明治元年28歳明治維新によりフランスより帰国、静岡で慶喜に面会
1869年明治2年29歳明治政府に仕える
1873年明治6年33歳抄紙会社を設立(後の王子製紙株式会社・取締役会長)
1877年明治10年37歳王子・西ケ原に別荘の建設を始める
1879年明治12年39歳別荘に初めて賓客を招く(第18代アメリカ大統領グラント将軍)
1901年明治34年61歳飛鳥山邸を本邸とする
1931年昭和6年91歳11月11日、永眠

王子製紙の立ち上げ

〜近代化産業の礎を築いた地・王子〜

王子製紙の立ち上げに関する資料

1873(明治6)年、渋沢栄一は製紙事業を官営で行うことを建議し、抄紙会社の設立願書を提出、設立の認可を受けました。工場の敷地選定にあたっては渋沢自身も各地を調査し、工場用水の確保という観点から王子への建設を決定しています。北区・王子と渋沢栄一との関わりは、この抄紙会社の設立から始まりました。渋沢は同社を近代的な機械工場の模範として広く知らしめたいと考えていたといわれています。この歩みは、現在「北区近代化産業遺産」としても紹介されています。

関連情報:北区の産業遺産ガイド

本邸を構えた飛鳥山

〜「職住接近」の地として〜

飛鳥山邸に関する資料

渋沢栄一は「職住接近」という考え方を持っていました。王子に製紙工場を構えたことから、その様子を見晴らせる飛鳥山の地に37歳で約4,000坪の土地を購入し、別荘として整備します。そして61歳のときに飛鳥山邸を本邸とし、以後、生涯をこの地で過ごしました。

賓客を迎えた飛鳥山邸

〜民間外交の舞台となった北区〜

飛鳥山邸を訪れた賓客に関する資料

飛鳥山邸は私邸にとどまらず、多くの賓客を迎える接待の場としても使われました。最初の海外からの来客は、第18代アメリカ大統領グラント将軍です。以降、渋沢は国内外・分野を問わず多くの賓客を飛鳥山邸に迎え入れ、重要な会議の場として、また民間外交の場として活用しました。北区は、新たな時代を切り拓いていく拠点のひとつとなっていました。

地域とともに歩んだ渋沢栄一

地域貢献に関する資料

渋沢栄一は日本の近代経済社会の発展に力を注ぐ一方で、王子・滝野川地域への助言や寄付なども行い、地域の発展を大切にしました。滝野川町役場庁舎の新築、滝野川警察署・消防・小学校など町行政の整備を支援したほか、滝乃川学園、愛の家、北豊島郡教育会、西ケ原青年会など地域の社会教育・文化事業にも関わりました。西ケ原互親会など地域住民による自治組織の発展を後押しするなど、渋沢栄一は北区を新たな時代へと導く役割も担っていました。

渋沢栄一ゆかりの施設

渋沢史料館

渋沢栄一の事績と思想を紹介する博物館。旧渋沢庭園には大正建築「晩香廬」「青淵文庫」が残ります。
西ケ原2-16-1

渋沢史料館ホームページ ≫

北区飛鳥山博物館

飛鳥山公園内にあり、北区の自然・歴史・文化を紹介する総合博物館です。

飛鳥山博物館ホームページ ≫

紙の博物館

王子製紙発祥の地・王子に設立された、世界有数の紙専門の博物館です。

紙の博物館ホームページ ≫